熊本城について
熊本城のルーツ
熊本城のルーツは、室町時代に出田秀信が茶臼山東端に築いた千葉城にある。続いて、千葉城入城後に鹿子木寂心が茶臼山西南麓に隈本城を築城する。関ヶ原の合戦の後、加藤清正が千葉城と隈本城を含む茶臼山全体に渡って熊本城を築城した。これが今に残る熊本城であり、400年を経た今日でも日本三名城の一つに数えられる。
熊本城の特徴
江戸城を代表とする「徳川系」の城が「白を基調とした高層天守と直線を中心とした方形の縄張」が特徴であるのに対し、大阪城や岡山城、松本城などとともに「豊臣系」の城郭に列せられる熊本城は、「黒い天守に曲線中心の縄張」にその特徴を見出すことができる。
熊本城主について
出田山城守秀信
出田の姓は、菊池氏三代兵藤経頼の子藤田三郎経家の子経信が、菊池郡出田村を領したことがはじまるとされる。出田山城守秀信は肥後守護である菊地重朝の代官としての地位にあり、『肥後国誌』によるとその所領は80町歩であったと伝わる。
加藤清正
名古屋市中村区の生まれ。豊臣秀吉と同郷の縁により、秀吉の小姓として仕える。その武名は賤ケ岳の戦で七本槍の一人としての功名にはじまり、秀吉の「唐入り」では先兵的役割を果たした。関ヶ原の戦いでは東軍に属し、合戦後は肥後一国、52万石の大名となる。また、藤堂高虎らと並び城郭建築の名手でもあり、とりわけ「清正流石組」と呼ばれる石垣には定評がある。
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